日本人は一般的に「討論下手」と言われています。
私もそのうちの一人。
アメリカに来て慣らされてきているとはいえ
やっぱり欧米人には決して勝てない。。。
今までどうして日本人は討論が苦手なのか、
などあまり考えたことがなかったのですが、
今読んでいる『仏教・神道・儒教』(井沢元彦著)という本の中で
その理由を見つけました!
実はそれは日本古来からある神道と言霊(コトダマ)思想に
関係していたのです。
まず言霊とは
”声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発するとよいことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事がおこるとされた”
という意味。
そして無色な意味で言霊を使うことを「言挙げ」と言うのだそうです。
柿本人麻呂の歌で
しきしまの大和の国は言挙げせぬ国
というのがあるのだそうですが、これは
「日本はあまりものごとを口に出して言わない国だ」、という意味。
なぜ言挙げしないのか?と言うと、
良い事を言えばよくなるが、悪いことを言えば悪くなるから。(←言霊の考え)
つまり、
討論のうまい人=みだりに言挙げする人間
と捉えられ、これは神道の教えからくる
「和を以て貴しとす」(聖徳太子の十七条憲法の第一条)
に反する人間となってしまい、嫌な印象を与えたり
悪い人間のように考えられてしまうのです。
よって、言いたいことがなかなか言えない、という事になり
日本人は討論下手、となるのだそうです。
目からうろこ!
だからと言って、討論が下手なことには変わりなく、
これをどう克服していくのかが重要な課題なのですが。。。
神道や言霊の考えがある限り、それは無理な話?!
4 コメント:
普段、気にも留めないような自分達の特徴も、実は昔からの習慣の影響を色濃く受けてるんだなぁって気づくと、なんか「なぁるほど!」って思うよね~。
この言霊の思想以外にも、日本人の討論下手を助長してるものって色々あるよね。例えば年功序列の風習とか。身分をわきまえつつ言ってはいけないことを言わない日本人が、小さい頃から大人と対等に論議させてもらえる欧米人に比べて討論下手なのは、練習量の違いを考えると自然な流れよねー。とか、集団主義だし、いざ意見を求められると個人としては何をどう思ってるか上手く言葉にできない人も多いと思う。察しの文化・情の文化でもあるから、理路整然と話を組み立てるのが欧米人に比べて上手くないのもわかる。
海外で生活してるOR外人と接する日本人は、何が自分に枷をはめてるのかがわかれば、その枷の外し方もわかるようになると思うけど、でも日本では討論下手のままのほうが生活しやすいかも?上手いとかえって疎まれるかもね。
珠吉、日本という国は本当に複雑な国だと改めて思い知らされました。悪い意味では全然なくって。。。ただいろんなところに足かせがあるような???
討論下手なのは日本の文化のせいであって、決して個人のせいではないことは分かるのだけど、本当にこのままでいいのか?と思う理由は、昔は海外との交流もなかったけれども(鎖国時代)、今はグローバルな時代。その時代に生き残るためには、いままでのままではいけないような気がする。と言いながらも、日本の文化は大事にしていきたいな~とも思うし。矛盾?!
数日コメント書きにこれなそうと思ったけど、案外すぐにこれました、珠吉です(笑)
足かせ、あるある。沢山あるよ~。帰国後何年もの間、「窮屈」と感じていました。
多分これに関してLothlorienも私も相反する2つの気持ちを同時に持ってると思うんだけど、私はLothlorienと逆に、海外と関りのある人には討論の技術は不可欠だと思いつつも、日本国内に住んでる日本人にはこれからも日本の良さを大事にしていってもらいたいと言う思いのほうが強いです。
何も言わない中に多くのものを秘めてる人の奥深さも、人に伝わる言葉で何事も上手に討論できる人も、同じくらい素敵だと思う。そしてどちらの在り方にも「悪い面」はあると思うの。上手に討論できるということは、人の言葉を鵜呑みにせず、自分の頭で考え、言葉を発し、聞き手を納得させられるということ。そうなっていく過程で、引き換えに日本人の良さである謙虚さ、奥ゆかしさ、誠実さ、が薄れてしまう気がして嫌。そんなことないかな?どう思う?こういうこと考えると長所は短所であり短所は長所だなと思い知らされる。結果、私のたどり着く結論は「グローバルな時代も日本には日本の良さで勝負していってもらいたい」です。いつかTVで見たけど、アメリカ企業が日本の会社に「チームワーク」を学ばせに人を送ったりもしてるみたいよ。日本人の「綿密さ」や「勤勉さ」や「繊細さ」の生み出す結果も素晴らしいし。討論下手でも、国際社会で日本の担えるもの、日本が秀でられるものはきっとあるはず、と思う~。
なあるほどね、珠吉。どうもアメリカに来てから「こっちのやり方が正しいんだ!」と思って頑張って自分を変えてきたりしてきたけど、日本には日本の良さがたくさんあって、それがアメリカでは相反するものとなってしまうのよね。何が良くて悪いのかは、このような場合絶対的なものではなく、相対的なもの、どの立場から考えるかによって変わってくるんだね。気づかせてくれてありがとう。でもそうすると、相反する2つのものを同時に持つ事は出来ないってこと?討論もうまくなりたい、でも日本人独特の謙虚さも持ち合わせたい、なんて贅沢なことなのかな?出来ればどちらも持ち合わせて、時と場合によって使い分ける事が出来るといいんだよね。
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